種子島銃(当時)

(2ちゃんねるより)
252:おさかなくわえた名無しさん 03/12/24
1543年種子島の領主時尭はポルトガル人から、鉄砲2挺を1挺1000両で購入した。
1549年織田信長が500挺の種子島銃を注文した史料が現存する。
1614年平戸からシャムに向かった貿易船の主たる荷物は、
武具が1具4.5両、小刀が1刀0.5両 鉄砲1挺3両と2.5両。
当時ひと月に6両といえば職人の給金として相当なものとみなされていた時代です。
253:おさかなくわえた名無しさん [sage] 03/12/24
>>252
1549年つーと、まだ信長は織田家を継いでないと思うんだけど?
1000丁とか3000丁を動員したとされる長篠が1575年だよ?

つーか、種子島領主ごときに2丁分2000両も出せないと思うんだけどな。
いくら物珍しくても、鉄砲の重量の何倍の金を払ってんだよ。
256:252 03/12/25
>>253
「時尭は1挺に金千両を投じたといわれる」←に修正します。

 「織田信長は当時16歳の少年であったが、元服をすませて所領を受け継いでいた。
  信長の鉄砲の師は橋本一巴で、信長はこの一巴をもって鉄砲500挺を注文せしめた
  ものらしい」
 以上 ノエル・ぺリン著 「鉄砲を捨てた日本人」より。
258:おさかなくわえた名無しさん 03/12/25
>>253
当時、共通通貨として小判なんてない。
あくまで金をそんくらい払ったってことだよ。
現在52へぇ

種子島銃(当時):掲示板

(掲示板の書き込み受付は終了しました)
1:大橋周治 (05/04/09)
1549年織田信長が500挺の種子島銃を注文した史料が現存する。・・・どこの国で作ってきたのでしょうか?イギリス、スペイン、ポルトガル???
2:名無しさん (05/04/10)
「国友鉄砲記」には、初試作からわずか5年後の1549(天文18)年には織田信長から500挺の火縄銃の注文を受け、これを製作したと記されている。やがて国友は日本最大の鉄砲産業の地として発達し、その後3百年にわたり幕府の砲兵工廠 としての役割を果たしていた。
3:名無しさん (05/10/07)
お金以外にも女を二人払ったらしいね
4:名無しさん (06/01/04)
貴方の知識は無知だらけだよ。
5:94643 (06/05/19)
戦国時代の日本には世界の半分の鉄砲があったらしいからねえ
6:ミリグラム (07/01/06)
「海外貿易から読む戦国時代」(武光誠・著)という本の記述によりますと、支払った価格がだいぶ違いますね。

「種子島家譜」には、時尭が鉄砲二丁分に支払った価格は、銀200両だったと記録されているそうです。
当時の銀200両は銭四万枚に相当し、今日の貨幣価値に換算すると約400万円、つまり一丁の価格は200万円ほどになります。
当時の西洋の銃の価格の相場がどれくらいだったかはわかりませんが、現代のクレー射撃用の銃には三百数十万円ほどの高級銃もあるので、それほどボッタクリ価格だったわけでもないと思われる、との事です。

補足:鉄砲伝来から70年後には、鉄砲一丁の価格はわずか二両にまで下落したそうです
7:名無しさん (07/12/09)
当時、飛び道具といえば弓しか知らなかった日本人が、新兵器として手に入れるとすれば、一丁200万は妥当な額じゃないかな。
8:一乗谷 (07/12/16)
千両はいくらですか
9:名無しさん (08/04/26)
※6がよく参考になる。
70年で100分の1とか、すごいなw
10:neko (09/12/24)
織田信長の話で…
鉄砲500挺の金が払えないので、鉄砲鍛冶を
自分の奉行にしたと聞いたよ。

織田信長の話で…
種子島へ注文したのではなく、堺の今井へ注文したと聞いたよ。

織田信長が若いときに、家臣を連れて京、堺を見物していった時に鉄砲鍛冶も輸送隊として尾張についてきたと聞いたよ。

ポルトガル人から鉄砲を買ったときの値段は
一挺金20両と聞いたよ。

種子島の領主は石高にして3万石ぐらいの領主のはずだよ。